5年前の3月末。勤めている病院を月末で退職、5月から新しい職場で働くことが決まっていた私は、4月なら被災地で何かお手伝いできるかもしれない……と思い、ボランティア団体に申し込みをしました。が、4月の出発はもう満員でした。やる気があれば、再度ボランティアの申し込みをし被災地に行くことも、それ以外にも色々できたと思います。しかし、その後の私がしたことといえば募金と節電といった微々たることで、何か力になるべきことをしたとは到底言えないレベルのことだけでした。
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それから5年経ち、友達から「びゅうばす 南三陸・気仙沼復興応援号の日帰りツアー」のことを聞きました。
今さら何かできることがあるとは思えませんでしたが、何もできなかったとしても、前にテレビで「被災地を訪れた人が、そこで飲んだり食べたりすることも復興支援の1つ」と、現地の人が言っていたのを思い出し、親を誘って行ってきました。
このツアーでは、南三陸と気仙沼で語り部さんが乗車し各50分ずつ当時と現在の被災地について話をしてくれました。(語り部さんは、震災前から現在まで南三陸と気仙沼で生活されている中高年の男性の方です。)
10:00 仙台駅東口集合
バスは南三陸へ向かいます。毎週日曜日開催のツアーに今回の参加者は15名。40人乗りのバスの中は空席が目立ちます。それでも、その日はお客さんが集まったほうで「最近はいつも1桁です」と、バスガイドさんが言っていました。
途中、高速道路から最近完成した復興支援住宅が4棟見えました。仮設住宅も数年経つとだいぶ傷んできていて、早く復興支援住宅へ移りたい人と思っている人はたくさんいるようですが、実際は建築が追いつかず、まだ7割以上の人が仮設住宅で生活されている、とのことでした。しかし、その仮設住宅も2年以内に取り壊す予定があるそうです。それまでに復興支援住宅は整うのかが疑問です。復興が遅れている原因は1つではありませんが、一番の原因は建築業の人手不足だという話でした。
11:30 南三陸さんさん商店街に到着(自由昼食と買い物)
海鮮を売りにした食堂が多く、食堂は家族連れでけっこう賑わっていました。私たちもここで海鮮丼を食べました。他には、ほや(生)やわかめ、タコも有名なようで店先に吊るされていました。
13:00 南三陸の語り部さんが同乗
震災後に改善した点
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(1)6メートル以上の津波が予想される時は「巨大津波がくる」とアナウンスすることがになった。(理由)今回逃げ遅れた人の多くが、巨大津波がくる5〜6分前のアナウンスの”6mの津波”を信じた人たちでした。防災対策庁舎の建物(12m)にいた人などが「6mなら大丈夫」と、その時居た場所に留まりましたが、2〜3分後に「逃げろ!」となった時にはすでに遅く、15mの津波にのみこまれてしまった、とのことでした。このことから、大津波がくると予想される時は「巨大津波」と伝え、早い段階での避難を促すことになりました。
(2)消防隊20分ルールができた。そのルールとは、「緊急時、20分は人命救助を行うが20分を過ぎたら、自分の命や家族を守るために行動してよい」というもの。
(理由)今回、犠牲になった人の中には少なくない数の地方公務員、また消防隊の方がいらしたそうです。特に消防隊の方は最後の最後まで職務を全うしようとする地方公務員の方々を助けに防災対策庁舎まで行き、そこで15mの津波に襲われ、43名の消防隊員が命を落としたそうです。
車窓から見える南三陸町はいたる所に土が盛られていました。そして、防災対策庁舎周辺は今後、緑地公園やメモリアルパークになるようです。
ここで南三陸町の語り部さんは下車。それからバスは一路、気仙沼市のリアス・アーク美術館へ向かいます。リアス・アーク美術館には常設展示として、震災現場写真や被災物が展示されていました。そして、ここで2人目の気仙沼の語り部さんが合流。この方からは、現在被災地がどんなボランティアを必要としているか、火の海の原因となった重油タンクは今どうなっているのか、などを聞くことができました。
話が長くなりましたので次は「3.11から約5年。今、びゅうばすで気仙沼を訪れたら。」でお話しさせてもらいたいと思います。